映像事業本部 林博史 37歳
内村のツボる動画大賞 総合演出 など
https://dev1.united-p.co.jp/blog/5150/
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ディレクターは子供心のまま、自分の好きなものを自由に作れる最強に面白い仕事。
ロケひとつとってもディレクターによって仕上がりは全く変わる。それが面白い。
この業界に少しでも興味あるならぜひ入って頂きたいと思いますが
そんなテレビ業界で言われがちなことが…
「優秀なADが出てこない」
僕がADの時にやった仕事は時代のせいもあり過酷なものでした。
「1ヶ月半テントでうなぎ撮影生活」
「2h海外特番を1人で20カ国のコーディネーターとやりとり。最終的にAD1人」
「ウイスキーの瓶が飛んでくる編集所で1週間寝泊まり」
「3日間の無人島ロケをAD1人で仕切り」
当時ついていたディレクターが酒好きだったため
毎日飲みにも付き合わされました。
そこでいつも言われるのは…
「俺がADだったころはもっと厳しかった!」
…つまりいつの時代も「優秀なADが出てこない」と叫ばれているということです。
優秀かどうかは時代のせいではない。あくまで個人の能力の差によるものだと思います。
僕はどんな番組だろうが早くディレクターになりたかった。
そこでこんな策を考えました。
「ライバルのADを蹴落とせばいい」
こうして文字にして振り返るととんでもないモンスターADに見えますが
高校野球などのスポーツでも一緒。
ライバルが減れば自分がより目立つだろうと考えたのです。
当時ぐるナイで働いてた時は全員DをめざすギラギラしたADが盛りだくさんいて
まさに戦国時代。ちょっとした隙があろうもんなら斬り殺されるような空気感。
ということで僕もいろいろ暴れまくっていました。
そんなある日、当時ディレクターだった森田社長から一言。それは
「どんな優秀であろうが、下を育てないとお前は上にはあがれないよ」
「神輿も、支えてくれる人がいるから上の人が目立てるんだ!」と。
いつも酒の席では大したこと言わないのに、珍しく芯のくった一言を頂きました。
確かにそうだなと。だってチーフADで仕切れる人を代わりに作らないと
いつまでも便利屋として使われちゃうものですから。
以来、
◎「収録・ロケに向けて作った50項目ほどのやることリスト」を作成
例)こんな感じで50項目
◎毎日仕事終わりに必ずこのやることリストを班全員で見返しながら
「ここのリサーチもっと早めないとDに詰められるぞ」
「今日お前全然働いてねーな」
と、反省点を1日づつ確認して明日やることを確認する
こんな昭和なやり方だったけどスタッフ全員の仕事ぶりが把握するには最適だったし
サボるやつ、責任の所在をはっきりさせるために効果的なものでした。
そうやって自分についてくれてるセカンド、サードの人間にできる限り仕事を教え
自分の後継者を育てることでディレクターに昇格へ一歩近づいたのです。
そして本題。ディレクターに優秀!と思わせるAD術。それは
「ADの頃からDの目線を持って常に仕事に臨むこと」
これがディレクターに好まれた理由であり
ディレクターに早く上がれた要因だと思います。
覚えてる中でやっていたことといえば
◎「ロケの段取りはディレクターより先に決めてDに提示」
→言われてから動くのではなく先手で動く
◎「一回戦のオフライン軽くやっときますといいながら全て自分好みの完尺で持っていく」
→やり込みすぎてディレクターに「刈り込みすぎだろ!」といわれましたが
何度でも完尺でもっていきました
◎「番組PRは全てやらせてもらい、通例のものは絶対に作らない」
→「全米は泣いた!」的な映画のようなPRをバラエティで作り
「お前クソセンスねーな」と大直しを何度もくらってました。
が、挑戦することは悪くないと褒められた記憶が。
◎「ディレクターそっちのけで演出面で必要な予算だ!と言い張りプロデューサーとの戦い」
→演出を最優先にし、100円の歯ブラシ一本でも大喧嘩してました。
ロケに必要なものは絶対に曲げないという信念
◎「毎週の情熱大陸・イッテQのナレーションとオンを書き起こす作業」
→今でも構成の役には立ってるのかな。
見てるだけではわからない構成を学ぶ勉強にはなる。
時にもうディレクターになったと勘違いしすぎて
ロケで「では5秒前〜!」ってカウントし出した時はさすがに突っ込まれましたが。
こうして23歳でディレクターになれました。
「ディレクターは子供心のまま、自分の好きなものを自由に作れる最強に面白い仕事。」
せっかくこの業界に入ったのなら
ディレクターの楽しみを感じて欲しい。
戦い方は人それぞれ。誰にでも可能性はあります。
一度きりの人生をどう戦うか。
目標を心の中でしっかり掲げていれば必ず夢は実現できる。